京浜運河の出来る前 子供の頃の思い出
                         記 2003年10月29日
 大井埠頭の出来る以前の平和島周辺
 昔の所ではでは記憶の部分で記述していますので勘違いを起している部分もあるかも知れません
 が出来るだけ印象に残っている部分をつないで記述しています。
  昭和30年頃の話です。私が未だ小学生の時、大田区にある平和島は橋で結ばれた
  島でした、周りは海と陸側の水路にはすでに競艇場があったのを憶えています。
  
小学生の時はこの平和島も遊びの範囲内でした。大きく潮が引くと広大な砂地、砂泥地が現れまし
た、特に左手の砂泥地では見渡す限りと言って良いほど沢山のオサガニ(子供の頃は横に長いので
みんなで電車カニと呼んでいました)、その他シャコ、木杭には又別のカニがと、とにかく、すご
い数であったのを憶えています。
そして、そこから見る東京湾は水平線でした。今は埋立がどんどん進み四角い海になって来ていま
す。
 当時は未だ生き物には興味は無くただ遊び場として良く行っていました。
その中で平和島に通じる橋の下で大きなアカガイが口を開いて中がすごく赤く見えたのが強く印象
に残っています。その頃沖合いには中の島と言う島があって渡し舟が数箇所から
出ていました。(今では埋立地の中でどこがそうだったのか分かりません)
今、東京港野鳥公園内のセンター前にオサガニの群れが見られますがそれとは比較にならないほど
平和島の所は巨大な生息地でした。
 それからしばらくして家を引越しましたので、全く平和島にも行っていませんでした、
又、遊びに行く事も有りませんでした。

この頃のエピソードを一つ、交番の中がカニだらけになった話です。近所の子供どうしで平和島の
砂泥地へ行った時です、海の中にお金が落ちていました、確か六十数円位と思いますが当時の額と
しては子供には大きなものでした、バケツに一杯のカニを取って(バケツが重いので竹の棒に吊る
して二人がかりで持って行きました)意気揚揚と交番へお金を届けました。

その時、交番の中で誰かがバケツをひっくり返して狭い交番の中はカニだらけで歩くところもない
ほどになってしまいました。おまわりさんは大笑いでしたが、みんなであわてて元に戻した記憶が
あります。今はその交番もなくなりました。でも、それ程多くの生き物が生息していたわけです。 
昭和36年頃は大井埠頭埋立地の外枠となる木杭が並んで海の中に立っていた記憶があります。この
頃から海は高度成長よって非常に汚れていったかも知れません。
一番ひどい時の印象として大井競馬場の突き当たりは海でした、今のモノレールの駅のある所から
先は大きな海原が広がっていました、埋立のための杭があったかも憶えていませんが海はの色は紫
色と茶色を混ぜたような変な色でした、又打ち寄せて砕ける波の色もなんとも気味の悪いものでし
た。
岸壁にもフジツボを始めとする付着生物もなく、無機的な何もいない何とも不気味で不思議な海と
いう印象が今でも強く残っています。
この頃が一番海の悪い状態であったかもと思います。ただボラとセイゴ(スズキの子供)だけはい
たような気がします。僅か10年もたたないうちに殆ど生物の棲めないような海になってしまいまし
た。
 昭和35年〜40年にかけて(1960〜1965年)大井埠頭の埋立地は出来上がったとの事です。この埋
立により当時の海の底に沈んだ汚染物が覆われて海の底は又良くなったと云われていた憶えがあり
ます。


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