京浜運河の初期から2005年現在まで
                          記 2005年12月6日
 大井埠頭へ行き始めた最初の頃から2005年9月まで
大井埠頭の埋立地は昭和35年〜40年にかけて(1960〜1965年)出来上がったとの事でしたが、全く
興味はなく、昭和40年代の初めの頃は良く三浦半島へ貝の採集に行っていました、大井の埋立地に
は全く関心が有りませんでした。
昭和45年(1970年)頃から埋立地の先端現在の城南島の方へセイゴ釣りに行っていました。。未だ
城南島には建物は何もなかった時代です。この頃は運河の中なんてと考えて運河には一切目もくれ
ませんでした。
その後ハゼが釣れるようになったとの情報を聞き、現在の中央海浜公園の所でハゼ釣を楽しんでい
ました、でもハゼが戻り釣れ始めた初期は7月から8月の上旬で全く姿を消していました、9月まで
釣れる事は有りませんでした。先週まですごく釣れていたのに今週は全く当りのない状態で、それ
でその年はそれでハゼの終期となっていました。この状態が何年も続き、少しずつハゼ釣りの終期
が延びて行きました。
  
 そして北埠頭橋の所へ、此処は温排水が出ていて色々な魚が釣れると云う情報を入手したからで
した。そこには小さな砂浜があり又船が座礁していました、今でもこの船は残っていますが、当時
は船体には黒いペンキもしっかり塗られて腐食した所は見られませんでした。この沈船は、2005年
現在まで撤去も去れず残っております。この沈船が砂浜に変化を与え、岩礁の役割を行い、又砂止
めの役割をとも思っています。又、この場所は木の杭も多くあり、多種多様の生物が棲める場所と
なり偶然とは云え生物にとっての都合の良い場所になったと思っています。
何か、生き物を育むために生き物を分かっている人が将来岩礁代わりになるとわざと撤去もせず残
してくれたようなそんな気もしています。
でも当時は、今に様に公園化されていなくて運河沿いには柵も有りませんでした、まだ貝も少なく
タマキビも10個体探すのに30分位かかりました。
当時は未だ水が悪く、大雨が降ると必ずと言って良いほどハゼ、セイゴは酸欠又は水質が悪くなる
のか水面を漂い、釣どころではなく釣れるまで回復するのに一週間はかかると言うのがハゼ釣りの
人の間では通説でした。 それから1980年代に入って少しずつその現象も一週間ではなく少しずつ
短くなって来ました、2005年現在では大雨でもそれ程影響はなくなりました。 
 ひどい状態の時は、セイゴでさえも体を正常な位置に保つのがやっとの状態で流れてくる状態で
手づかみで簡単に捕まえる事が出来ました、ハゼは直立護岸では酸素の多い水面に上って来てもし
ばらくすると力尽きて又沈んでしまう状態になったり、水面をかろうじて泳いでというより水に流
されての表現の方が合うかも知れません、砂浜では波打ち際に無数のハゼで真っ黒になるほど酸素
を求めて集まってきます、砂浜の波打ち際は生き物たちの避難場所でもある事がはっきりと分かる
状態でした。
 当時見られる貝は非常に少なく7種類だけでした、本格的に貝の観察を始めたのは1979年にハゼ釣
りをしていて足元にクレハガイを見つけた時からです。それまでは種類数も少なくいつも同じ種類
ばかりで貝は見ていたものの釣りがメインで運河の貝には、殆ど関心は有りませんでした。このク
レハガイは色々な場所へ出かけて探しても見つからなかった貝でしたので何故此処に?とかなり疑
問に思いました、その後ずっとこのクレハガイを探しながら観察をしましたが結局2個体目を採集
したのは1996年実に17年後でした、そして2000年からの定着につながって行きましたが79年の個体
は何故見られたのか今でも不思議に思っています。(結局今でも、京浜運河の他では船橋の海浜公
園で1個、三浦海岸で1個だけです) 
 それでも79年以降は年代を経る事に色々な貝、他の生き物が戻って来たり、外国からの移入種が
やって来て定着を始めました、定着出来る事自体が運河の環境が少しずつ良くなって行った証拠と
思っています。
たった1個の貝が、又壊れた破片でも後になって非常に大きな意味を持って来る事も有りました。こ
れは観察を続けていないと分からない事だと思っています。
 一番印象に残る事は1996年の観察の時でした、前年から流し始めた下水処理水により運河の中で
は大きな変化が見られました、今までにない種類の増加、定着、打ち上がる種類の増加とこんなに
も違うものかと驚きました。そして2000年にも立会川(ボラの集団で少し有名になりましたが)に
もJR東京駅の地下水を流し始めました、この時にも又新たな種類の増加が少しだけですが見られ
ました。
この2回を通じて感じた事は放流を始めた年には全く変化がなく、翌年になって初めてその効果が現
れるという事です。これは生き物の繁殖サイクルが関係しているのではと思っています。けっして
短期間では現れない現象です。
生き物の動向は一年以上を通じて見なければ、一時的な遇因的なのか、継続して見られるようにな
るのか分からない事が過去2回の経験から得た印象です。
 その他2000年には、何故かカニの種類の増加が見られました、それまで見られなかったマルバガ
ニ、ガザミ、ジュウイチトゲコブシガニ等が見られました。内マルバガニ、ガザミは毎年継続して
見られています。又この時にイソギンチャクも増えたようです、これは後になってからのクレハガ
イの増加につながって来たと見ていますが、この時の要因は分かりません。
観察を行っていて、1回々の観察は小さいけれども回を重ねると自然に頭の中で断片がつながって来
て変化を見つける事が出来ます、これは誰が行っても同じだと思っています。
北埠頭橋の所は最初は運河の中の何の変哲もない場所と思ってそれ程関心もなく見ていた訳です
が、ある時貝類同好会へイガイダマシを持って行った所、移入種で日本国内では未だ棲み付いてい
る場所は非常に少ないとの事で珍しいと言われ見直した事も有りました。
やはり1人で見ているようですが、多くの貝類同好会、談話会、貝類学会の方達のご指導、助言等の
協力があったからこそ長く続けて来られたと思っています。
 観察には一箇所を決めて見ていると、大井埠頭の中でもこんなに違うんだなと言う事が良く見え
てきます。周辺の状況から定点地点を見直して見ると結構面白い事も分かります。
こんな場所にこんな貝がいるのかとびっくりする事も有りますし、最近大井埠頭でも一番外側の城
南島に人口の海浜公園が出来ましたが、此処との比較は非常に面白く、棲息状況が一変します。運
河の中と外これほど違うのかと云った印象です。
 我が家にインターネットが開通して、しばらくしてホームページビルダーを買ってそのままにし
ていました、同好会の紙面ではどうしても限られてしまう事も有りましたし、状況だけでもと思っ
ていても全く進みませんでした、そのうちインターネットの検索中に偶然、私と同じ大井埠頭での
定点観察記録を続けている方がいるのが分かりました、同じ大井埠頭の中ですが私と違った場所で
の細かな定点観察です。"運河のいきもの"のハンドルネーム紫煙氏ですが、現在は時たまその方と
もお会いして各種の情報をやり取りしています。1人では気が付かない事が情報交換を行っている内
に出てきます、やはりこれは不思議な事と思っています。今まで気が付かなかった情報、最新の情
報等を教えて頂いたりと、やはり1人で見るよりも複数の目で見る事が一層大事なのかなと思ってい
ます。
  2002年の5月に北埠頭橋の砂浜が崩壊するような出来事がありました、その後2005年
9月までの観察状況からこんな事を感じ始めています。
2004からは今迄観察していて一度も出会った事の無い現象、遇因分布種の激増です。
何故、運河の中にこんな貝がいるのか不思議に思っていましたが、湾内に強い潮流が数年に渡って
絶えず流れ、底部の泥を流し去り、その後、湾奥の貝ではない、東京湾外湾に棲む様な遇因種が育
って目に見えるようになったと思っています。
 ただ、遇因種が目で見られる様になったのが、2004,2005年ですから、遇因種が育つ基盤が出来る
まで1年半の歳月を要して初めて現れた現象の様な気がします。
この現象は東京湾奥全体に現れているかも知れません、偶然始めた塩分の測定では2005年
5月から塩分は下がって来ています、2005年9月までの貝の出現の様子は変わりませんが
貝は死んでも殻を残しますので生息していた事が分ります、今はその名残りの様な気がしていま
す、今回の3年に及ぶ高潮によって東京湾内の汚れは殆ど流れ去ったのではとも感じています。 運
河はやはり水路だから明確に出たのかも知れません。
来年は高潮が収まった後の東京湾奥の持つ、姿が見える様なそんな気がしています。
この考え方が間違っているのかも分りませんが、今はこんな事を感じています。
又、東京湾奥の運河の中でも水、底がきれいになれば、色々な貝が育つ事が出来るんだと感心しています。


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